土日、長女の思いつきで親子三人一泊二日の旅をした。大層なものではない。宮崎鹿児島の境、手近な霧島一帯をぐるり回遊した、それだけのことだが、家族で出歩くということが余りないから何やら充足の休日だったように思える。高原の尾花は既に秋の風情で風は確かに秋の風だが、日差しはまだまだ強烈で平地と大差ない。標高百米で一度下がると聞いたことがあるが、昨日は千米の高千穂河原でも30度を越えていたのではなかろうか。
さすがに夕方になると日差しも和らいで、奥霧島の湯の宿に入ると姦しい蝉の声がぴたりと止んで鉦叩きやコオロギの声に替わった。湯から上がってベランダで煙草を吹かして(私は哀しい蛍族)ふと空を見上げると宵待ち月が鈍く光っていた。煌々と耀く月明かりよりこれぐらいの明るさがちょうどよい。
「おいおい、ちょっと来て見ろや。月なんてしみじみ見たことなんてなかろうが…」あまり興味はなさそうだ。「月より団子、花よりお菓子」の部類だな、月曜の今日は中秋の満月なのだが。
月寂びよ明智が妻の咄せむ 松尾芭蕉
明智とは言わずと知れた明智光秀。織田に仕官する前、浪々の身の光秀が連歌の会を催す資金がなく窮しているのを見かねたその妻が髪を売って工面したという口伝がある。山内一豊の妻、千代が馬を買う資金を捻出したという言い伝え同様、内助の功を美徳としたい儒教思想が残した口碑だろうが、芭蕉はそれを持ち出して「挨拶」とした。
この時この句を詠んだ芭蕉が投宿していた弟子の又玄もまた暮らしに窮していた。しかるにその妻女が心をこめて夫の師をもてなし、いろいろ歓待してくれたことが芭蕉は嬉しかったのである。芭蕉にはこのような挨拶の句が多い。
一夜明けて「鼾がうるさくて眠れなかった」とさんざん文句を言われて、憮然とした。
山を降りて霧島神宮へ。長女の宮参りはここだった。生後ほぼ一ヶ月で連れてきた。時に私は29歳。それから29年が過ぎたことになり、それなりの感慨はある。神仏を信じない私だが、二拍一礼は知っている。まぁ型どおり、頭は下げてきたけれど。
次いで高千穂牧場でアイスクリームを食べて、天孫降臨の高千穂山に行ったけれどとても登れないから途中で引き返した。山頂にはニニギノミコトが突き刺した「天の逆鉾」があるそうだが……、おかしな話だ。記紀の時代、冶金の技術はない。鉄器や青銅器は中国から渡ってきた。恐らく水稲栽培も冶金も始皇帝を騙した徐福が伝えたに違いない。日本では弥生時代である。嘘で塗り固めた話が今も通用するのは面白い。
えびの高原を経て生駒高原のコスモスを見た。ぼちぼち開いてはいるがまだ時期が早かった。大輪の芙蓉が咲いていた。アメリカ芙蓉というそうだ。やはり芙蓉は野に咲く芙蓉が一番いい。
竹二題、竹にまつわる話の続きである。
昨年京都に遊んだ時、宿は京都御所の蛤御門の前に取った。次女の計らいで安く泊まれた上に、しし脅しもしつらえた日本庭園つきの静かな宿で、押し付けがましくない心休まる歓待に、さあらばこその思いを強くした。
ここで水上勉ゆかりの寺が近くにあることを知った。今出川通りを越えて同志社大学に至る道の途中にあるらしい。水上勉が幼少期京都の寺の小僧であったことはよく知られており、その自伝的小説の中にも度々出てくる。例えば「筑前竹人形」あるいは「雁の寺」など、赤裸々な京都のお寺の庵主とその家族、大黒とその子の物語を興味深く読んだ記憶がある。
「行ってみるべ!」
翌朝子供二人を引き連れて勢い込んで乗り込んだが、あいにくその日は休館日だった。「水琴窟」「雁の寺」の表札が掲げられていたが、中には入れず虚しく引き上げた。
水琴窟はかつてどこかの小堀遠州の庭園で見て聞いた覚えがあるが定かではない。先月、川内の有島三兄弟の文学館を訪問したおりに中庭にしつらえてあり、こおどりした。ちょうど雨がしとしと降り出して、耳をすますと「チントンシャン」の音がする。確かに風流である。
越前竹人形はやはり孟宗竹なのだろうか。一度お目に掛かりたいと思っている。
種子島に金竹、苦竹という何の変哲もない竹が自生する。金竹はお盆前に筍が出て、精進料理に欠かせない。私らが筍と言う時はまずこの筍が頭をよぎる。苦竹の子は主に春だが、季節を問わずにょきにょきと顔を出す。味噌汁の実に実にいい。湯がいて酢味噌和えなども気が利いている。未だに長男は「苦竹の味噌汁が飲みたい」などと言ってくる。やはり故里の味の一つなのだろう。
この苦竹、鹿児島本土にもいっぱい生えているが誰も見向きもしない。聞けば「苦くてとても食べられない」とか……。確かめてみたいのだが、血相変えて「駄目だ駄目だ」というので二の足を踏んでいる。沖永良部島にもあったので味噌汁に入れてみた。おいしかった。ということは種子島を北限とする西南諸島の苦竹だけが食に適しているということか。おかしな話ではある。

昨夜はしたたかに酔っ払い、そのまま吉野の従兄弟の家でつぶれた。朝方重い頭をさすりながら「ご帰還」となったが、途上音もなく静かに雨が降りはじめ、人気のない竹林は静寂に包まれていた。一雨毎に秋は深まり白秋から玄冬にやがて季節は移っていく。
「麦の秋」と同様に、春先に黄色く色づくから「竹の秋」は春の季語である。だから「竹の春」はちょうど今頃の季節、この時期の竹はしっとりと落ち着いて美しい。写真は嵯峨野、地蔵院の孟宗竹、昨年次女と長男と三人で嵐山から嵯峨野一帯をめぐった時のものである。
竹と言えば一般に孟宗竹を指すことが多いようだ。姿よくいろいろな細工にも向いていて竹製品はたいてい孟宗竹である。多少のえぐみはあるが、筍もうまい。孟宗というくらいだから日本に入ってきたのは唐代だろう。鹿児島には孟宗竹の筍の皮に灰汁に浸したもち米を包んだ粽がある。砂糖や黄粉をつけて、あるいはそのままでも頬張るが、なかなか美味しいものである。日持ちがするから昔から保存食として重宝したのではなかろうか。種子島ではその他に、ダチク(駄竹?)の葉で包んだ似たような粽を作るが、前者を灰汁巻き、後者を角巻きといって区別する。
と、こう予報すれば大きくはずすことはあるまい。晴れても曇っても、雨が降ったとしても非難されることはない。
天気予報に限ったことではない。神ならぬ人間が近未来を予測するのは難しい。予言などというものも曖昧模糊としていて、あとで状況に応じてどうにでも言い逃れできるように苦心惨憺した様子が読み取れる。相場の予想など見ていると、思わず笑ってしまうような文章に出くわす。あちこちに予防線を張っていて、堂々巡りの判決書みたい。「ふざけちゃいけませんよ、お兄さん!」それでは何も言ったことにならないではありませんか。
最近テレビを賑わすぶくぶく太った一対の男女、ついでに神がかりの女のような男も。気色悪いよ〜〜。したり顔で説教たれるあのずるそうな顔が嫌いである。
さて突然だが憲法は国の基、日本という国の有りようはそれに尽きる。その前文と9条で恒久平和を説き戦力を保持しないと断言した国が、世界第五位の軍事大国である怪。こちらは受け取る側が勝手に拡大解釈している例である。ちゃんとした文言があるのに、「まぁまぁ」とうやむやにしている。
ついでに言えば、生活保護による扶助が、営々と40年間保険料を払い続けた国民年金受給額より高額なのはどういうこった。国民年金は満額で月7万なにがし、払えなかった時期があり月2〜3万という人も少なくない。生活保護は月10〜15万、葬式代までついてくる。憲法25条に言う。「国民は最低限度の文化的生活を営む権利を有する。」(文言は多少違うかもしれない)これに対応する個別法が生活保護法で、細かい決りはあるが住所さえ確保しておればその対象になる。国民年金だと?あんな馬鹿げたもん払う必要などあるもんか。食えなくなったら憲法25条、宵越しの金は持たないよ〜〜。
知ってる奴は知っている。知らない奴は野たれ死ね!
ただね、子供たちともカカサンとも縁を切らないと受給できないから私はせっせと年金払ってますけどね。あたしゃぁ5万もあれば山中で自給自足できる自信がありますけれど……。
公園に行くと必ず一人、二人野営の人がいます。「ゴマンといる」という言葉がありますが、全国にホームレスは5万人を下らないでしょう。法の下の平等を言うのなら、この人たちに毎月10万円支給してもらいたいもんですな。失業給付金や生活保護などは不景気のおり「意図しない経済効果」をもたらしますからな。下手な景気拡大政策より効果があります。雇用保険法改悪など逆効果ですがな。もっと盛大にお金を循環させましょう。
窓を開けっぱなしにして風を入れるのは何ヶ月ぶりだろう。夏の間はずっと締め切って外気を遮断する暮らしを続けてきた。このところ朝夕はしのぎやすくなったので、昨夜はクーラーなしで寝た。今朝窓を開けても内外の温度差を感じない。名実ともに秋になったのだ。やっぱり自然の風は心地よい。
実はここ最近体調がよろしくない。お下劣で恐縮だが、年来の痔疾が治まったと思ったら、今度は便秘気味で通じがよくない。通風が出たり、立ち眩みしたり、何だか病の百貨店みたいになってきた。加えて昨日から典型的な風邪の諸症状、大事をとって今日一日は出歩かず静かに休息することにした。
夏の間の疲れがどっと出たのかもしれない。血圧を120前後に落としていることも、「立ち眩」や「疲れ易さ」の一因ではないかなどと思っている。とにもかくにも夏を乗り切った。その安堵が油断につながったとも言える。
先週92歳の伯父(妻の)を見舞った。一人暮らしだが、病後とは思えないほど元気で矍鑠としている。その折「あなたも体が弱いのだから気をつけなさい」と言われて、「そうか。俺は体が弱いのか」と妙に納得した。自分では「頭は弱いがタフな男だ」と思ってきた。若いときは確かにそうだったのだが、50過ぎてからあれこれ不都合が生ずるようになった。
一病息災ならぬ多病息災。わが身をいたわることもたまには必要なのだろう。
まだまだ残暑厳しい日々が続く。
川辺に荒れ放題の土地を借り上げたので、今日は早速多少なりとも藪を刈り払って耕し、冬野菜の準備をせねばならんと思っていたのだが、外に出て花に水をやったり掃除したりしてみるといかにも暑い。だらだらと汗が頬を伝う。一週間の疲れも回復していないので明日に譲ることにした。彼岸も近いというに「どこまで続く、この炎暑」、やはり地球は狂っている。
昨年の今頃、山梨の阿Qさん宅を訪った。二川駅から鈍行に乗り、富士で身延線に乗り換え富士川に沿って単線の山岳電車に揺られること二時間。名前は失念してしまったが古色蒼然たる駅があり、改札口に満面笑みの阿Qさんが立っていた。一年ぶりの再会だった。
この「ネットモ」とのお付き合いはもうかれこれ10年になる。きっかけは「シニアナビ」のディベートbbsだったと記憶する。一億総ざんげの敗戦国日本の世論も、戦後50年を経てまたもや「誇り高い日本」を声高に主張する向きが頭を擡げてきた。「日本も核を持たなければならない」「海外派兵で日本も世界に確固たる地位を占めるべし」「ノーと言えるニッポン」などなど、タカ派の攻勢はすさまじい。
私も阿Qさんも「非武装中立派」だったのでそれを横目で見て苦々しく思っていた。あえて一石を投じたが四面楚歌、孤立無援。多勢に無勢で、あえなく敗退した。「老兵は消え去るのみ…」このマッカーサーの至言を反対の意味で思い知った。それ以来のお付き合いである。
お互いを知るにつれ共通項が多いのに驚いた。同時代、同年齢であるから踏んで来た道が似通っているのは当然だが、老荘に思いを馳せるところまで一緒となれば意気投合するのは自然の成り行きである。
違いはこちらが三流で、あちらは将来を嘱望された旧帝大出の一流才人であることだけ。橋梁設計で独立自営の傍ら、休日は稲作、桃・林檎など果樹栽培などもてがける。「農」の基本についての考えも似通っている。
偽悪を標榜し、ちゃらんぽらんを装いながら、ちゃんとした芯をもっている人である。細やかな心気遣いも忘れない。と、ここまで書いて「ちょっとお世辞が過ぎたかな」と思うけれども…。
奥さんとの初対面の挨拶もそこそこに、畑に出て桃の木陰のウインナー焚き火パーティに。勝手に林檎をもいでビールで流し込み、農事を肴に一杯、体制批判で復一杯。論壇風発で時を忘れさんざん酔っ払って温泉に行き、民宿に入ってまた飲んだ。
翌日は清里からの南アルプスの眺望に感嘆し、富士五湖めぐりなどほぼ山梨全県を踏破した。下って日蓮宗の総本山、身延寺の大きな伽藍に驚嘆した。ここは父母が「生きているうちに一度はお参りしたい」と言っていた処。父母の信心についてはいつかまた話すことあるやも知れず……。
ゆく秋や亡父亡母も寺が好き
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