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還暦いよいよ下り坂
かぎりある命のかぎり蝉時雨
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ランタナの葉陰にひそと秋の蝶

神無月も残すところ五日となった。そろそろ出雲から神さんたちが帰ってくる。私のところの二階の梁に我が物顔で居座っていた貧乏神も、御前会議と聞いてしぶしぶ出ていったが、今頃は小憎らしい貧相な小便面を振りたててよろよろと家路を辿っているに違いない。内心「追い出してやろう」と機会を伺っているのだが、いざ対面すると仏心がきざして鞭を持つ手が萎えてしまう。どこか憎めない奴なのだ。割と素直で、絶縁状を突きつければしおしおと出ていくに違いないのだが、どこでも歓迎されるはずもなく路頭に迷うのがわかりきっているだけになかなか言い出せない。還暦を目の前にして気が弱くなったものだと嘆いている。
当分は猫マンマでも与えて飼い続ける外はない。
ただしどこかで福の神を呼び込むか誘拐してくるかしないと我が家の財政は破綻してしまう。またもやドルが大暴落。借金返済の資金まで手をつけていたので後始末にてんやわんやだった。給与振込み口座などイーバンク以外の口座はかみさんに渡していたのが不幸中の幸い。
当分(来年初まで)サブプライムの破綻は尾を引くだろう。それにしてもドルは弱い。ドルは基軸通貨だからすべての通貨に悪影響をもたらす。損を抱えての撤退は悔しいがここは潔く引き下がるべき時である。
「泣いて馬食(?)を切る」孔明の心境はこんなもんか……。
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秋衣袖通す間のあらばこそ

周回遅れで息せき切って訪れた秋は慌しく駆け去って、景色もにわかに冬めいてきた。「今日は冷えますなぁ」などと言うのは、昨日まで「暑い。暑い」とわめいていたので何となく気恥ずかしい。鹿児島も風が身にしみる季節になった。
このところ、あちらこちらで花木の枝を手折っては鉢に挿して水をやっている。開聞岳麓のむくげ、和田公園のさつき、ドルフィンポートのランタナ、慈眼寺の芙蓉、それに名前はわからないのだが、昨日は山川の農家に藤に似た蔦かずらが楚々とした花をつけていたのでかっぱらってきた。最近は気に染まない仕事の合間のこの略奪行為が趣味になっている。「濡れ手に粟」というのは実に痛快だ。
本当は発毛促進剤とか使って確実に根付かせるのだろうが、私の場合はいきあたりばったりの素人の手慰みで「根付いたら儲けもの」程度の発想だから、生きるか死ぬか新芽が出るまではわからない。それもまた面白い。なぜかいきあたりばったりというのが好きなのである。
綿密に計画してその通りに実行することに何の面白みがあるかと思ってしまう。人生も似たようなもので、自ら敷いたレールに沿って確実に歩を進めることが利巧なのはわかっているが、なかなかそれができない性格である。連れ立って歩く人には気の毒なことである。
しかし何事も何万分の一、何億分の一という偶然のうちに成り立っている。今更じたばたしても始まらない。
二本のむくげのうち一本に、緑の新芽がびっしりついている。これは八重の紅白、来年は花が咲くのだろうか。たったこれだけのことに私は胸躍らせる。翻って考えれば、今の私にはそんな愉しみしか残されていないということである。

ぶらりあてのない旅に出よう。何かが君を待っている。あはは。


長き夜やぽかり夢より還りけり

私は丹念に「文芸春秋」を繰っている。
「ここにあったはずなんだが……。」
前から、後ろから、一枚一枚剥がすように何度も探すが見つからない。
「確かにあったんだ。この扉の後ろに……。」
「何言ってるんだ。そんな処に親父の写真があるはずがないじゃないか。」
兄が不思議な動物を見るような目で私を見た。
「いや、あったんだよ。ここに。」
私は諦めきれずに、まだ執拗にページを繰っている。
そう、確かにあった。黒ぶちの丸い眼鏡、いかつい目、団子鼻、今にも笑い出しそうな緩んだ口元……。一杯やったあとの親父の顔が確かにあった。帰りの汽車の中で私は間違いなくそれを見たのだった。
「でも何だな、その…。」
義兄が私をかばうように言葉を出した。
「葬儀に遺影がないというのも、間の抜けた話だ。」
「そう言われても、ないものは仕方がない。」
兄は憮然とした表情で祭壇を見た。
「写真を撮ることなんてなかったから…。」
義姉が義兄の顔色を伺いつつとりなすように言い訳した。
何言ってるんだ、こいつら。大阪に戻れば親父の写真なんて腐るほどあるぞ。無干渉で親父をほったらかしにしていたと自供しているようなもんじゃないか。
私の顔は歪んだ。
最初に親父の部屋に入った私の目に飛び込んできたのは、ベッドサイドのカビの生えた菓子パンだ。そして湯かんのため服を脱がして愕然とした。全身くまなく蚯蚓腫れ、あれを見て私はいまだに身の震えが治まらない。
「困りましたね〜〜。どんな小さな写真でもいいんですがねぇ。」」
幕を張っていた葬儀社の男が誰に言うともなくこぼした。
「今日持って帰らんとどうにもならんとです。」
私はもう一度「文芸春秋」を開いてみた。
あった。あった。扉の後ろで親父が笑っている。
「ほら。ここに……。」
勢い込んで義兄にそれを示した。その時…写真の中で親父が手招きした。

どうして今頃になってこんな夢を見るのだろう。すでに兄も鬼籍。いよいよ私の番なのか……。



二つ三つ汽笛きこへて暮れの秋

港が近い。窓辺に佇むと沖縄行きの客船の汽笛がきこえる。
今午後七時、釣瓶落としの秋の夕暮れはあっという間に夜に転じて、おまけに霧雨が音もなく降り出した。何やらひっそりともの想う秋、なのに私は昨夜から歯痛で苦虫を噛み潰したような顔をして外を見ている。
「親知らずですね〜〜、いづれ抜かねばなりませんな」
たまりかねて飛び込んだ一間先の歯医者が事も無げにそう言った。歯医者に行けば痛みは治まるものと安易に考えていたのだが、どうもそう簡単には運ばないようだ。しばらく耐えるしか方法はないと言う。化膿止めと鎮痛剤を処方して、「煙草はやめよ」とか「今日は飲んだら駄目だ」とか禄でもないことを言う。どうも飛び込むところを間違えたようだ。
リンパ節が腫れて嚥下するのも困難なので、今日は朝からほとんど食っていない。缶ビールを一本だけ飲んで、空腹を抱えて二階に上がってきた。と、そこへ低音の腹にこたえる汽笛が「ぶお〜〜」と来た。
いつもはちょうど食事の時間なので気付かなかったが、この時間に沖縄行きの汽船は出るのである。
錦江湾内を二時間、佐多岬をまわり外洋に出て、屋久島を迂回して七島灘をひた走り奄美大島着早朝。徳之島、沖永良部島、与論島に立ち寄って那覇入港は翌夕方ごろになる。まる一日の航海である。もう一度あの船に乗ってみたい。
さて問題は歯痛の方だ。広辞苑を引いてみると、親知らず「一番遅く生える上下二本計四本の歯、臼歯、知恵歯」とある。一番奥にありなんでもガジガジかみ締める歯だから一本でも欠けると大変なことになる。幸いにまだ一本も欠けていない私の歯だが、そろそろ年貢の納め時なのかもしれない。
この歳で一本も欠けていないということはまぁ、有り難いことではある。歯並びが悪くていろいろ不都合も多いのだが、とにもかくにも歯痛に泣いたことはあまりない。
兄弟の中でもとりわけ歯が丈夫なのには訳がある、と私は思っている。幼い頃(戦後まもない生まれなので、日本の復興と足並み揃えて成長した)母は私に煮干と昆布ばかり食べさせた。味噌汁の中のダシ雑魚、ダシを取ったあとの昆布、全てが私の皿に盛られた。泣いてもわめいても食べ終わるまで許してもらえない。さほど学のある親とも思えないのだが、どこかで聞きかじったことを後生大事に貫いたのだろう。どれほどの因果関係があるかはわからないのだが…。
お陰で総入れ歯の友人も多いのに、私はしっかりと噛める丈夫な歯をもっている。その歯をついに抜く時が来たのか……。
因果はめぐる。丈夫な歯をくれた母、その母を棄てた私……。「でもあの時はどうしようもなかったんだ」と思いは交錯する。父と母、二人の要介護者を抱え、せっぱづまった当時を思い出す。

「秋の暮れ」は秋の夕暮れ、「暮れの秋」は晩秋を指す。
北海道クチコミポータルサイト

育ちたる島より帰りきたる娘が下げし冷凍烏賊とトビ魚

「小松帯刀とは何ぞや」と問われて、うろ覚えで「薩摩藩緊縮財政の立案と藩政改革の功労者」という意味のことを言った。今、検索して調べてみると私の考えとはだいぶ開きがあるようだ。知ったかぶりはよろしくない。素直に「知らない」と言えばいいものを、自分を大きく見せようとするから恥をかく。
私の頭の中では「調所広郷」と「小松帯刀」がごっちゃになっている。調所はお由良騒動以前、小松は斉彬没後の久光側近である。時代に開きがある。この間に斉彬がいる。小松は久光派で大久保西郷とは対極にあると思っていたが、むしろ彼らの庇護者であったと書いてある。わかりやすいので全文<日吉町吉利に在住の瀬野富吉氏著『幻の宰相・小松帯刀伝』より>から引く。ご海容のほど…。
URLは、http://hiyoshi.kashoren.or.jp/midokoro/komatsu/komatsu.html

(ここから)
日吉町(引用者注=現日置市)は、以前の日置と吉利の二つの町が合併したものですが、その一つ吉利は、藩政時代は小松帯刀の領地でした。幼名・肝付尚五郎は、天保六年(1835年)10月4日、鹿児島の肝付家で生まれました。23才の時に指宿郡喜入の領主、小松家の当主が琉球出張中に亡くなったので島津斉彬からの勧めもあり三男の帯刀が急に小松家の養子になったのです。領地吉利へ初入りの式を済ませた帯刀は、少しでも家臣と親睦を深め、領内の事情を知り、領内の今後の改革に取り組もうと考えました。
ある日には吹上浜の雑木林を取り囲んで、兎狩りを催し、兎汁をして楽しんだり、また若者を集めて相撲をとらせたり、その後懇親か(引用者注=ママ)を開いて若者の意見も聞いたりしていたのです。このようにして吉利で過ごしてみると住民の暮らしがわかってくる。帯刀は家臣だけでなく百姓庶民の暮らしにも、注意し、百姓の苦労をねぎらい、無礼講で一緒に楽しめるようにしたといわれます。「小松家の名君」の誉がまたたくまに藩内に知れわたりました。斉彬亡き後、小松は京都や江戸で、朝廷の中心の公卿方や、有力な幕閣と交渉し、家老同様の任務を処理して、公武合体を推進したことや、斉彬公への贈位交渉に成功を収めました。久光はその手腕力量を認めて、小松を家老に昇格し、各種の重要な諸掛かりを担当させることにしたのです。弱冠28才の若い家老の誕生となりました。

このように小松帯刀は御側詰の家老である上に、一藩の軍事・財政・教育・商工業などことごとくをその若い双肩に担うことになったのです。しかし、小松はこのような重要政務を実にあざやかに切り回しています。すべての施策事業には金が必要であるので、産業をおこし、通商を盛んにし琉球・清国をはじめ諸藩と交易して、藩の財政を豊かにし、これを重要な教育、軍備に惜しげもなく使ったのです。小松は、性質は温和であるが、事に処する決断は抜群なものであったといわれます。明治維新の推進者で実現を前に非業の死を遂げた土佐の阪本龍馬はよく知られていますが、龍馬と小松は天保6年の同じ年の生まれです。どちらも26,7才の頃から活躍していますが、龍馬は大政奉還の直後に33才で死客の手に倒れ、帯刀は新政府成立直後の明治3年に36才で病に倒れています。さて、大政奉還を前に新政府の人事構想が話題になったとき、人物評の独特な見方から、阪本龍馬が推薦した人物を紹介すると、1.小松帯刀、2.西郷隆盛、3.大久保利通、4.木戸孝允、5.広沢兵助、6.後藤象二郎、7.横井小楠、8.長岡良之助、9.三岡八郎、であったといいます。このことをみても小松の見識・政治手腕は若いながらも志士の間では大いなる評価をされていたとわかります。
薩長同盟など許魔ノ(引用者注=ママ)行われた重要な秘密会議のほとんどが京都二本松にあった小松の私邸で行われたといわれています。これは薩摩藩の城代家老であったこともありますが、その人柄と識見もずば抜けて信頼があったといえるのではないでしょうか。
帯刀が京都から鹿児島へ帰る時、別れを惜しんだと思われる和歌が残っています。「鳴渡る雁の涙も別れ路の袂にかかる心地こそすれ---小松帯刀」。この返し歌に、「うちいづる今日の名残り思いつつ薩摩の海も浅しとやせん---琴仙子」。の歌があります。琴仙子は京都祇園の名奴とうたわれた女性で帯刀の愛妾でした。そして第二夫人になったのです。芸技だけでなく学問にも優れ、ことに和歌の道に秀で、美しい情愛の持ち主で、帯刀が病床に伏すと献身的に看病しましたが、その死を痛み「わたしが死んだら帯刀公の傍らに埋めてほしい」との遺言を残しました。現在、琴仙子の遺骸は日吉町吉利の園林寺跡小松墓地の一隅に葬られています。帯刀の果たした幕末史上における役割は極めて大きいものがありますが、病弱のため明治3年、36才の若さで没したために、明治維新といえば西郷・大久保ときて小松の名はかすんでしまうようです。しかし、実は西郷・大久保の働きは、小松の存在を抜きにしては語れないのです。(ここまで)



路今し半ばとっぷり秋暮るる





彼岸を過ぎて日に日に日暮れが早くなる。仕事場を5時過ぎに出て帰り着くまでの小一時間ですっかり夜になってしまう。近くにイオンの大型ショッピングセンターがオープンしたので、ますます渋滞がひどくなった。動かない車列に業を煮やし、暮れゆく空を仰いで苛々しながら空ぶかしする。
全土の交通渋滞によるエネルギーの無駄な費消と炭酸ガス放出は膨大なものだろう。「早く化石燃料車は駆逐せねばならん」と大臣並みのことを考える。ようやく端緒についた燃料電池や電気自動車が一般に普及するまで如何ほどの時が必要か。おそらくそれまで生きてはいまい。

一昨夜は次女が出張で上麑したので家族みんなで中華料理の店に行った。久しぶりに生ビール5杯も飲んでしまった(日頃はばばさまの目が光っていて、缶ビール一本しか飲めない)。余は満足じゃ。
昨日、次女は種子島に遊びに行き、妻は出勤で私は日暮らし寝て過ごした。それでもまだ二日休みがある。今日もまた寝て暮らすか。余は満足じゃ。
最近草木に凝っている。開聞岳の麓の槿の枝を二本失敬して水をあげておいたのを今日鉢に挿す。先日は白い彼岸花の球根を盗んできて家の前の街路樹の根元に植えておいたら一本だけ花が咲いた。そんな愉しみでも探さないとロードーシャはやってられない。
さて今日はどこかで芙蓉の紅白一対かっぱらってくるかな。余は満足じゃ!

夏草やつはものどもが夢のあと   芭蕉

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だいぶ前のことである。南薩から枕崎・坊津を経て吹上浜まで巡り歩いた。そのおり少し内陸に迷い込んで上の石碑を見つけた。
碑文を読んで、それが関が原当時日向佐土原10万石の当主であった島津豊久の顕彰碑であるとわかった。
建てたのは岐阜県上石津町の人々、往時薩摩軍が退却した路筋にある。
関が原で薩摩は西軍に属したが最後まで旗色を鮮明にしなかった。この時日和見した武将は多い。小早川は言うに及ばず、筒井も毛利もじっと形勢をうかがっていた。
西軍の敗走が決定的となった時、恐らく島津義弘は愕然としたにちがいない。率先して伏見城を陥して焼き付けた反家康の烙印を今更消すことはできない。
進むも地獄、退くも地獄、もはや風前の灯火、生き残る道はない。苦慮する義弘に「家康本陣急襲、中央突破」を進言したのは豊久であったと言われている。
豊久は義弘の傍にあり、参謀を務めていた。
袋の鼠とたかを食っていた正面の井伊勢は沫を食った。義弘がたった3000の兵を率いてまっしぐらに突進してきたからである。
あわてふためく井伊を尻目に島津勢は風のごとく駆け抜けた。瞬時自失の井伊軍も我に返って追走した。追撃は執拗を極めた。殿(しんがり)は豊久が努めた。織田信長が朝倉浅井に挟撃された時の秀吉を持ち出すまでもなく、退却の際の殿ほど難しい役目はない。浮き足立つ自軍をまとめ防戦しつつ退くのである。彼我の戦意に格段の開きがある。しかも兵力は寡少、兵站の補給もない。義弘が命からがら堺にたどり着いた時従うのは十数騎であったという。もちろん豊久も横死した。
上石津町の人々は豊久の落命覚悟の奮迅を讃え語り草とした。墓もそこに残っている。
つまりそういう経緯があり石碑が建てられたのである。なぜこの山里、永吉かと言えば、関が原後日向佐土原藩はとりつぶしとなり、行き場のない遺臣たちに義弘がこの地を与えたからである。豊久に子はなく、養女に喜入摂津守の男児を娶わせてこれを奉じた。ありていに言えばこれよりのち豊久の血筋は絶えたといっていい。
さて豊久は島津貴久の三男である家久の第二子である。よって義弘は伯父にあたる。家久は貴久の薩摩大隈日向三州平定に従軍して武功をあげた。系図に「家久初め横川城を賜ふ」とある。
菱刈、串木野と移封ののち、佐土原を落して日向一国の領主となった。秀吉の九州成敗では戦ったもののいち早く降伏して、島津本体とは別個の大名として領地を安堵されている。
この碑文では豊久を家久の長男としているが、実は兄がいた。名を忠直といい、最初に家督を相続したのはこの人である。秀吉の朝鮮の役に二度とも義弘に付いて出兵している。しかしこのおり気が触れたらしい。「忠直、狂気病により隠居」としか系図には書かれていないので詳細はわからない。文禄慶長の二度の朝鮮出兵で気鬱病にでもなったものであろうか。明国と薩摩の将兵の肉弾戦は苛烈を極めたという。あるいは気が狂ったとしてもおかしくはない。
こちらは早くに子を成してしたので、以後連綿として続いている。しかしもともと隠居料名目の捨扶持しか与えられていなかったので困窮したようだ。江戸初期に「ご苗字返上」を申し出て許されている。「参勤交代のおり、かつての領国をみすぼらしい体たらくで通過するのははなはだ迷惑、御名を汚すことにもなる」とは遠まわしの加増の要求ででもあったのか。認められて以後島津を棄て本城を名乗る。菱刈町本城にその隠居地があったからだという。古文書を読み解くのは面白い。点が線になり、線が面になって大きな時のうねりとなって流れていくさまがよくわかる。


地の果ての駅と槿と薩摩富士

本土最南端の駅は西大山駅である。JR指宿枕崎線の指宿と枕崎の途中にある。最近この線路と平行して走る国道226号線の保守に駆り出されることが多い。鹿児島市から車でたっぷり一時間、往復二時間は働かずにすむから願ったり適ったりである。実労5時間少々で運転は人任せ、車窓を眺めてほくそえんでいる。
沿道にはむくげが植えられていて、今花盛りである。その花の向こうに開聞岳(別名、薩摩富士)。間をときおり二両編成の電車がよたよた通過する。(まてよ、これはディゼル車かな。そういえば架線がないような気もするが)これぞまさに桃源郷、空気もうまい。時に人糞の匂いも風に乗ってくる。
ここから見上げる開聞岳はなだらかではある。しかし稜線がぎざぎざでしかも緑濃い山容なので「美しい」とは言い難い。私は海から望む蒼い整った山容を見慣れているが、薩摩富士の名に値するのはそちらである。
標高922メートル、一度頂上を極めてみたいと思っている。

さて「桃源郷」という言葉は、陶淵明の「桃下源記」に由来するのだが、それはいわば陶淵明の理想郷である。戦乱を逃れた人々が人跡未踏の深山に分け入り外界と隔絶した邑を開く、そこを数百年後道に迷った男が訪れる設定になっている。川を遡行して洞窟を抜けると豁然と平野が開け、鶏鳴き、百花繚乱の下に異形の人々が睦まじく平和に暮らしている村があったら…。これはあくまで戦国の世に倦んだ淵明の願望なのである。自分も含めて人間という動物の愚かさに舌打ちしつつ、暗然とした思いでこれを書いたであろうか? それとも人間の未来に希望を見たであろうか。

プロフィール

やまとやかん yakandesu@pure.ocn.ne.jp

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