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還暦いよいよ下り坂
かぎりある命のかぎり蝉時雨
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百舌鳴くやこころに深い闇がある

今年の仕事が終わった。取り合えず契約満了で、もし継続する意志があるなら再度四月に応募せよとのことである。正直なところ、「やれやれ」という気分が強い。三月までの更新もできたのだが、すっかり怠け癖がついてしまってちょっと息抜きしたくなった。ばあちゃんも母ちゃんもいたくご不満のようなのだが、生来の三年寝太郎で人付き合いが煩わしい。この歳まで一度ももらったことがない「失業保険」をもらうことにした。それにしてもあの7月から9月までの酷暑の時期をよくもまぁ乗り切ったものだと思う。だれも褒めてはくれないから私は「自分を褒めてあげたい!」
ところで最近見るのは変な夢ばかり。昨夜の夢は、高校の校長と出入り業者でかつPTA会長でもある某氏の癒着と横領、それを正義の味方、やかんが快刀乱麻で縦横無尽に糾明する夢だった。正義の味方として夢に登場するのは初めてのこと、「おいおい、お前にそのキャラクターは無理だよ〜」と声を枯らすのだが、私の思惑とは関係なく物語りは進行する。ついに二人は逮捕され、私が喝采を浴びるところで目が覚めた。
校長は、私がさる高校の学校新聞を受注していた時分、細かく口出しして「うるさい!」と思っていた赤シャツ、PTA会長は、生家の二三軒隣で幼年期薫陶を受け長じてゼロから叩き上げで建材会社を作り上げた立志伝中の人物である。この二人を滅多切りにするのだからよほど憎しみが溜まっていたものと見える。
精神分析では夢を無意識が顕在化したものと見る。私たちが意識する意識はほんの一部分で、意識には本人も知らない広大な無意識の領域がある、と唱えたのはフロイトで、大著「精神分析入門」でそれを初めて解明して夢判断を科学にまで高めた。今でも退行催眠で幼時のトラウマを探し出すなどは治療の一環として行われている。もっとも今ではフロイトが生涯かけて収集した事例はすべて根拠のないものとして退けられているが…。すべて人間の行動をリピドーに結論付けるのも性急に過ぎる。
ただ昨夜の夢一つとっても、人間が心に深い闇を持っているのは確かである。
改めて考えて見ると、思い当たるところがない…わけでもない。……。

年忘れかくて今年も終はりけり

夜中に目覚めてトイレに走ったが間に合わなかった。次の間で噴き出し、台所で盛大に下呂ってしまった。今年二度目の大出血、この歳で嘔吐するほど飲むとは情けない。
もともと止まらない性質である。日頃は周りの目もあり自制心も働くから缶ビール2本程度で済んでいるが、忘年会となると話は別だ。あまり注いだり注がれたりは好きではない。さらに飲むと気が大きくなり「馬鹿か、こいつ等」などと思うから、人に話を合わせるということができない。だから至極当然に話の輪からはずれる。末席で黙々と飲んでいる。
2年前に心臓の風船治療をした。それまでは一定量越えると胸が痛くなりそれ以上は飲めなかった。今はその限界が消滅した。良かったのか悪かったのか…。今日はその後片付けに忙しい。自分のしでかしたこと家人に頼むわけにもいくまい。
だんだん、人間が丸くなってきたとは思うのだが、反面でいじけてきたようにも思う。往年の覇気はない。どこか場末の小汚い食堂の片隅でみすぼらしい格好でちびりちびりやりたいなどと考えるのは多少のMか? 
「こいつ、帰る家もないのか?」
「一緒に飲む仲間もおらんのか?」
「貧乏臭い。ちびちび舐めやがって」
そういう同情と憐憫を一身に集めて、居心地悪く飲む。そして薄汚れた外套のポケットから百円玉と十円玉を取り出してカウンターに数えて置き、すごすごと当てもなく夜の寒風に身を晒す。ああ、たまらない。想像するとぞくぞくするなぁ。
サド侯爵ならぬマゾ男爵とは私のことだ。

有為も良し無為も亦良し鰻の湯

常々「鰻温泉」に行ってみたいと思っていた。噂に「いいお湯だ」と聞いていたのである。地図を見ると薩摩半島の池田湖の側に鰻池という豆粒ほどの湖沼が載っている。そのほとりに温泉保養地があるのだろうと思っていた。しかしさほど遠い処ではないので、いつでも行けるという思いが先にたち訪れる機会がなかった。
昨日ようやくその気になり、家人と連れ立って出かけた。指宿から右に折れ野山を縫うこと10分、峠を越えると眼下に静まる結構大きな湖が目に入った。周囲を山に囲まれた、これは恐らく火口湖だろう。湖岸を走ってほどなく着いたところは小さな集落である。温泉郷などというものではない。とまどいながら中に入ってみると二、三、温泉の看板がある。集落中央の掲示板によると戸数53戸とか。ところどころに噴気口があるようで、あちこちで白い煙があがっている。集落全体が静まり返って、訪れる人など皆目ないようである。
「区営温泉、湯料200円」に魅かれて、手拭と石鹸だけ下げて入浴した。あちこち温泉には行っているが、こんな小さな鄙びた温泉は初めてである。ただ湯量は豊富で掛け流し、掛け値なしの極楽湯であった。
区が何を指すのかがわからない。小学校区とか中学校区が一般的だが、53戸で小学校が成り立つわけがないから、字区か大字区なのだろう。集落営なのだ。こういう場合、地元民は無料ということが多いが案内板にそういう記述はなかった。訪れる人が少ないから維持管理も大変だろうと納得した。
ところで脱衣所で読んだところでは、参議を辞職して鹿児島に隠棲した西郷隆盛がここを訪れている。10日ほど滞留し湯に浸かりウサギを狩った。その西郷を追ってひっそりと訪れた客が一人、佐賀の乱の首謀者江藤新平である。時に乱は鎮圧され江藤は追われる身である。江藤は「共に立つこと」を西郷に懇願し、西郷が動かぬことを知って絶望した。この辺のところは、司馬遼太郎「跳ぶが如く」に詳しい。おそらくは司馬もここを訪れて取材している。
この時西郷は、自分が反乱軍を率いることになろうとは夢にも思っていない。江藤が捕縛され即刻処刑された時どのような思いが去来したであろうか。
歴史は皮肉である。

昨年今年(こぞことし)あへて竿挿すこともなし

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うしろ姿のしぐれているか
正月が近い。来年は西南戦争終結130年とかで、鹿児島は今この話題で持ちきりである。いろんな企画やイベントが新聞を賑わしている。この日本最後の内戦が鹿児島の内外治に及ぼしたものの大きさを痛感する。歴史に「もしも…」は禁物だが、「もし桐野利明が野村忍介の建策を入れていたら…」などという特集が地元紙に組まれていて面白く読んだ。何の大義もない不平士族の反乱だが、鹿児島の民草にはこの敗戦にはがゆい思いがあるようだ。
野村は中隊を率いて大分に転戦、敗色濃い撤退戦の中で唯一衆目を集めたが、如何せん多勢に無勢、後に西郷に合流し最後はそれに殉ぜず降伏の道を選んだ。薩軍の指揮者の中では異色の存在である。近衛兵では西郷が大将、桐野が少将であったのに対して、野村は大尉であったに過ぎず重く用いられなかったことに憮然とした思いがあったかもしれない。懲役10年の判決を受けそれに服したが恩赦で出て余生をまっとうした。
薩軍将兵の中には、西郷暗殺に糸引く政府要人に対して「審問の筋これあり」という大義名分に首をかしげるものも多かったのではなかろうか。辺見、篠原など異議をとどめながら衆目の赴くところに逆らわず、潔く死んだような気がする。「議を言うな」という郷中教育の結果であろう。ましてや4万、否最終的には5万とも言われる駆り集められた兵に大義などはない。私学校生徒とは名ばかり、むしろ強制的に連行されたというのが実態なのではなかろうか。
種子島からは約200人が海を渡っていて、私の祖父もその中にいた。この時薩軍の兵制は一小隊200人、10小隊2000人で一中隊である(政府軍は一小隊100人、これは日本陸軍に受け継がれた)。祖母の父は鹿児島にあり、やはり「西郷立つ」の報に身を投じた。
種子島小隊がどの大隊に属したかわからない。ただ後に祖父が祖母を娶ったことを考えると恐らくこの戦中に祖父と祖母の父との交流は生じたのではなかろうか。となると恐らく祖父は祖母の父の率いる半隊か小隊に身を置いたということになる(小隊長の下に半隊長を置き、100名をその下に置いた)。
幸いにして祖父は生きて還ったが、祖母の父は5年の懲役に服した。戦後、大黒柱不在の祖母一家の困窮著しく、ついに帰還すると同時に種子島移住を決断したという次第。この決断に至るには祖父がおおいに相談に預かっていると思うのだがどうだろう。事実は小説より奇なり。小説にしたいようなロマンである。
とまれ戦中戦後鹿児島は疲弊した。刑務所に収監された者も少なくない。士族は生活に窮して為すすべもなかった。このような甚大な被害をもたらしたのは「西郷の人望のぞみ」にあったと司馬遼太郎は言外に断罪する。西郷という人は頼まれて否と言えない人であったようだ。反面で「この人の為なら命も惜しくない」と思わせるカリスマ性を持ち合わせていたのだろう。
西南戦争の過程を見ると西郷は一言半句も口出ししていない。ただ言われるがままにその巨体を移動しているだけである。「単なるでくのぼう」と見るのは私だけか。ただ公でそのようなことを言おうものなら集中砲火を浴びるのは必至である。
戦後10年で西郷は賊を解かれ、子孫は公爵など貴族に列した。反してこの西郷に従い山野に戦った将兵は辛酸を舐め、獄中で呻吟した。彼らの名誉回復はされていない。すでに忘れられた祖父と曽祖父を書くことで、心ばかりの供養としたい私である。


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やまとやかん yakandesu@pure.ocn.ne.jp

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