先の日曜日、魚釣りから帰ってテレビをつけるとちょうど篤姫出立の場面が…。篤姫役の宮崎葵はなかなかに愛くるしい顔立ちだが、写真で見る限り天障院篤姫はお世辞にも「お美しい」とは言えぬ面相である。これから島津斉彬の実子として京都に入り近衛家の養女となり徳川家に嫁すわけだが、実際のところ馬鹿殿様とはどのような夫婦であったのか興味つきないところである。まぁ、本当のところは政争の犠牲者、薄倖の女性だったのだろう。ただ一面では次期将軍「慶喜」擁立の使命を担っており、したたかさも併せ持つスパイ、忍者の顔を持つ。
テレビで見る鹿児島城(鶴丸城)はなかなかに秀麗だが、最後の藩主、忠義が撮ったという写真が残っていて、これを見ると鹿児島城は平凡な館である。もともと大層な城ではない。徳川初期、海が近いから駄目だという義弘の意見を押し切って家久が築いた城で、「人をもって城となす」の島津の思想は何層もの秀麗な天主建造を許さなかった。背負う城山もたいして峻険ではなく、堀の前は海に連なり攻めるに容易な平城である。この城が一度も外敵に晒されなかったのは奇跡と言っていい。
篤姫の輿が出たのは北御門か御楼門か? 女子といえども藩主の実子(?)正面玄関から出るのが自然だろう。当時前面に二階家はない。とすると正面には桜島がその威容を誇っている。
篤姫が桜島を惜別する場面があったが、興ざめした。もちろん人家や電線は消去してぼかしているが、山容は現代の桜島である。大正、昭和の噴火以前の桜島を知るすべはないが、当時は恐らくもっと違った形をしていたはずである。
たった百二十年。城址に佇んでもの想うことしばし。
実は筆者の勤務先は鶴丸城と道を挟んだ向かい側、藩政時代の厩の跡である。西南戦争の銃弾の跡が残る石垣のうちにある。朝夕に堀端を通行し、往時をしのべば感慨もまた新た、たった百二拾年! 堀のよどみに浮かぶ泡粒は生まれかつ消えて留まるところを知らず。人生かくの如し。
神社の横の垂直の岩肌にわずかながらきざはしが刻まれて手すりもつけられている。上を見上げながら一歩一歩足を運んだ。岩肌を縫うように右へ曲がり左に曲がって階段は続いている。ここを霊場とする信者たちが何十年もの間に踏み固めた径ともいえぬ小径に、多少の手を加えた程度の急勾配、見下ろせば足がすくむ。径は延々と続いている。
スイッチバックの踊り場には観音やら地蔵が祀られている。神道系だと思うのだが、仏教系の偶像を祭神とするあたり、私には理解しがたい。キリスト教信者がマリアの代わりに弁天を拝むようなものではないか。このあと訪れた知覧の平和記念館でも神社の賽銭箱の前に観音が鎮座していた。日本人の玉石混合は今に始まったことではないが、十把一絡げであれもこれもの偶像崇拝は承服しかねる。
さて、いよいよ径は険しくなる。息も上がった。立ち止まり一息入れてはおもむろに足を踏み出す。次第に腿が上がらなくなってくる。動くより座り込んで休む時間の方が永くなる。滝を見て感嘆するよりも、「まだかまだか」と終点を願う気持が先にたつ。
ようやくなだらかな処に出て、私は精も魂も尽きた。眼前には1条の滝、落差は約30メートル。これより先獣道も見当たらない。滝の飛まつを浴びて水を飲んだ。
「八瀬尾」の八は末広がりの「たくさん」を意味するようだ。ここまで大小取り混ぜて滝の数は十をくだらない。滝三昧というべきか。小一時間滝壺に佇んで引き返した。危ないからそろりそろりと降りてきた。行きはよいよい帰りは怖い。正午きっかりに登り始めて鳥居のあたりの地面に降り立ったのは三時を回っていた。
家に帰り着いて、広辞苑を引いてみた。
「扶桑教」 ……教派神道の一つで富士信仰系。造化三神を(元の父母)と呼んで主祭神とし、合わせて天照大神と富士の山神、木花咲耶姫命を祀る。惟神の大道を修めることを教旨とする。1873年(明治6)宍野半(ししのなかば)が富士講を結集して組織した富士一山講社に始まる…。
何が何やらよくわからないが、とにかく山伏や行者でお馴染み、富士信仰の一派のようだ。そういえば滝壺で鴉天狗の鳴き声を聞いたような……。以下次号。
久しぶりに山を歩いてきた。私のいう「山歩き」はご大層なものではない。高峰を極めようとか、名山に足跡を記すとか、その類の感興はいささかも持っていない。ただ単にどこにでもある雑木山に分け入り、ただ単に山中を彷徨する。時々羊歯、山菜を持ち帰る。春が近くなると、そぞろ体内に虫が湧く。
地図は持たない主義である。行き先を定め、経路を確定して準備万端で出発するのは仕事であって遊びではない。分刻みの予定を消化するのは労働だけでたくさんだ。だから本当に春愁に浸りたいと思ったら単独行。家族と連れ立って出かけるのもたまにはいいが、気ぜわしくもあり気遣いもするので疲れる。予想のつかない、行き当たりばったりの「彷徨」こそ望ましい。
谷山街道をひた走って川辺峠を越え、南九州市に入った。南九州市は人口百万、北九州市と並ぶ九州屈指の政令都市で、隣の南薩摩市とは月とスッポン、象と蟻ほどの違いがある。道行く人もおしゃれである。冗談はさておいて、日頃地図を紐解くことのない私は鹿児島港を起点とする国道225号は谷山で途切れ、その先は指宿経由枕崎線(226号)が接続すると思っていた。谷山街道を過ぎて川辺街道に入っても225号の表示があるのでコンビニで聞いてみると、「川辺経由枕崎線こそが正真正銘の225号だ」という。ということは、谷山→川辺→枕崎が主要路で、指宿→枕崎は迂回路ということだろう。
峠を下ると旧川辺町、川邊氏が治めていたからこの名がある。仏壇と磨崖仏がとりえの小さな町だ。俳人福永耕二の故郷である。町に下りずに馬事公苑から左に入った。九十九折の坂道を登ると八瀬尾の滝が山間に白い糸を引いている。辺鄙なところにあるので訪れる人は少ない。地元民以外は知る人もあまりない。昨年の今頃、石蕗取りに来て迷い込み偶然発見して、幾重にも連なる滝の白糸に魅せられた。以来心鬱々と愉しまないときはここに来る。
橋の袂に「ここからは見えないが上に10段の滝がある」と記されていて、いつか最上部まで登ってみようと思っていた。壁面に赤い鳥居の小さな神社がある。今回仔細に観察すると、「扶桑教八瀬尾教会」とあり、教会の住所が書かれている。恐らくは山岳宗教の一派、行者信仰の一種だろう。住所はわたし方と同じ市内同じ町内、ちょっとした番地違いである。「そういえば…」と道を隔てた対面の筋に小さな看板があったのを思い出した。以下次号。
難解な文章に辟易している。まったく意味がわからない。同じ処を何度読み返しても輪郭が見えない。それでも何度もなんども目で追ってみる。そこではたと気付いた。私には理解するだけの知識がない。
若い頃はそれなりに「何をなすべきか」「いかに生きるべきか」を考えた。自堕落に生きて三十余年、暮らしにあくせくして考えることをやめてしまった。夕刻になるとビールが欲しくなる。何と心貧しい人間に成り下がったのだろうと後悔と反省の日々である。理想に燃えた青春はもう還らない。
言いたいことはわかっている。西田幾多郎における身体論の兆しはすでに初期著作に胎動している、と言っている。従来は中期著作で顕れた概念だと思われているらしい。
それがどうだというのだ。西田幾多郎が、いつ、何を考えようと、歴史に毛ほどの変化があっただろうか。サルトルとヴォボワール夫人は哲学者であり文学者でもあったが、「文学は飢えてる子供の前で無力である」と達観して一時筆を折った。哲学なんてのは無用の学だ、虚学の最たるものだ。憤然と閉じ、机下に投げやった。無念である。
だいたいが西田幾多郎は難解だと言われていて、学生時代紐解いたこともない。哲学のこみちを歩いて桜に浮かれたのが関の山、西田さんなんて観念論の大家だと思っていた。レーニンの「国家と革命」「何を為すべきか」その後「共産党宣言」「ドイツイデオロギー」「ヘーゲル批判」と突き進んだ時代だった。メルロポンティもヘーゲルも知りません。
土日、熊本→阿蘇→竹田→大分→別府→湯布院→大分→九重夢吊橋→久住→阿蘇→高千穂峡、千キロを踏破した。阿蘇はちょうど野焼きの日で、全山ボウボウと火と煙の中だった。
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