カスタム検索
還暦いよいよ下り坂
かぎりある命のかぎり蝉時雨
カスタム検索

昨年今年(こぞことし)あへて竿挿すこともなし

unaginonedoko.jpg.jpg

うしろ姿のしぐれているか
正月が近い。来年は西南戦争終結130年とかで、鹿児島は今この話題で持ちきりである。いろんな企画やイベントが新聞を賑わしている。この日本最後の内戦が鹿児島の内外治に及ぼしたものの大きさを痛感する。歴史に「もしも…」は禁物だが、「もし桐野利明が野村忍介の建策を入れていたら…」などという特集が地元紙に組まれていて面白く読んだ。何の大義もない不平士族の反乱だが、鹿児島の民草にはこの敗戦にはがゆい思いがあるようだ。
野村は中隊を率いて大分に転戦、敗色濃い撤退戦の中で唯一衆目を集めたが、如何せん多勢に無勢、後に西郷に合流し最後はそれに殉ぜず降伏の道を選んだ。薩軍の指揮者の中では異色の存在である。近衛兵では西郷が大将、桐野が少将であったのに対して、野村は大尉であったに過ぎず重く用いられなかったことに憮然とした思いがあったかもしれない。懲役10年の判決を受けそれに服したが恩赦で出て余生をまっとうした。
薩軍将兵の中には、西郷暗殺に糸引く政府要人に対して「審問の筋これあり」という大義名分に首をかしげるものも多かったのではなかろうか。辺見、篠原など異議をとどめながら衆目の赴くところに逆らわず、潔く死んだような気がする。「議を言うな」という郷中教育の結果であろう。ましてや4万、否最終的には5万とも言われる駆り集められた兵に大義などはない。私学校生徒とは名ばかり、むしろ強制的に連行されたというのが実態なのではなかろうか。
種子島からは約200人が海を渡っていて、私の祖父もその中にいた。この時薩軍の兵制は一小隊200人、10小隊2000人で一中隊である(政府軍は一小隊100人、これは日本陸軍に受け継がれた)。祖母の父は鹿児島にあり、やはり「西郷立つ」の報に身を投じた。
種子島小隊がどの大隊に属したかわからない。ただ後に祖父が祖母を娶ったことを考えると恐らくこの戦中に祖父と祖母の父との交流は生じたのではなかろうか。となると恐らく祖父は祖母の父の率いる半隊か小隊に身を置いたということになる(小隊長の下に半隊長を置き、100名をその下に置いた)。
幸いにして祖父は生きて還ったが、祖母の父は5年の懲役に服した。戦後、大黒柱不在の祖母一家の困窮著しく、ついに帰還すると同時に種子島移住を決断したという次第。この決断に至るには祖父がおおいに相談に預かっていると思うのだがどうだろう。事実は小説より奇なり。小説にしたいようなロマンである。
とまれ戦中戦後鹿児島は疲弊した。刑務所に収監された者も少なくない。士族は生活に窮して為すすべもなかった。このような甚大な被害をもたらしたのは「西郷の人望のぞみ」にあったと司馬遼太郎は言外に断罪する。西郷という人は頼まれて否と言えない人であったようだ。反面で「この人の為なら命も惜しくない」と思わせるカリスマ性を持ち合わせていたのだろう。
西南戦争の過程を見ると西郷は一言半句も口出ししていない。ただ言われるがままにその巨体を移動しているだけである。「単なるでくのぼう」と見るのは私だけか。ただ公でそのようなことを言おうものなら集中砲火を浴びるのは必至である。
戦後10年で西郷は賊を解かれ、子孫は公爵など貴族に列した。反してこの西郷に従い山野に戦った将兵は辛酸を舐め、獄中で呻吟した。彼らの名誉回復はされていない。すでに忘れられた祖父と曽祖父を書くことで、心ばかりの供養としたい私である。


コメント

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

プロフィール

やまとやかん yakandesu@pure.ocn.ne.jp

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

yahoo

リンク