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還暦いよいよ下り坂
かぎりある命のかぎり蝉時雨
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背中で聞く「今日も一雨ありさうな…」

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 苔寺(西芳寺)


一昨年のちょうど今頃、嵯峨野での一枚。
この西芳寺、予約がないと入れてくれない。事前に葉書で「おねげぇしますだ」と打診して、かつ大枚をはたかないと門前払いとなる。それでも入れ替わり立ち代り鴨はやってくる。一度に百人として一日○度入れ替え、一人○○○○円、私はめまぐるしく頭を働かせて積算した。それによると一日の営業利益は○○○○○○○円、一年では……、優良企業だぁ。しかも法人税も事業税も免除ときた。
しかも、しかもですぞ。ただでは庭を見せてはくれない。般若心経を書写して奉納せよとな、何とご無体な。筆はおろか箸一本握ったことのない私にそれはあまりに酷い要求であろうが。
後ろで坊主が眼を光らせているから仕方なく筆を取ったが、ミミズが這った後のような字を見て、仏様は苦笑いしておるであろうよ。恥をかかせおって……。

「でも般若心経っていいな。短くて覚えやすいな」
お経の一つぐらいは覚えておかないと閻魔様に舌抜かれるしな。
それから私「般若心経」という薄っぺらな本を買って勉強しました。CDも車に積み込んで朝晩の通勤時間に一心不乱に唱えました。やっと半分ぐらい覚えたかなと思う頃、声高らかに誦していたにもかかわらず事故りました。
本もCDも車と一緒にお釈迦になりました。笑い事じゃありまへんで〜〜、ほんまに。
でも人間の記憶ってたいしたもんですな。今でも半分は唱えられまっせ。
ぶっせつまかはんにゃはらみた……。




短か夜や酔ふて傍若無人なる

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紫陽花はシーボルトが愛妾「お滝さん」の名で世界に広めたというが…


ちょっとこのところ見聞きしたことを……。
一時期「猛烈サラリーマン」とか「企業戦士」などという言葉がはやったが、田舎者ゆえその実相を知らなかった。過労死で労災認定などと聞いても実感がなく他人事にしか思えなかったが、身近に見て「さもありなむ」とたまげてしまった。私とは住む世界が違う。
ますます日本は住みにくくなる。一方に年間所得200万に届かないワーキングプアが溢れ、一方には高額所得者なれど一日15時間労働の過酷な労働者。社会は完全に二極分解してしまったか。一方は使う金がない。もう一方は使う閑がない。なんとも哀しいことだ。小泉-竹中路線がこの傾向を加速した。木を見て森を見ず。
アタリサワリがあるので誰とは言わないが、続けて二人の大企業経営者の著書を読んだ。いろいろ苦労もあったようだし、先見の明、強運もお持ちだし、社員に対する愛情もあふれている。いうところはない。共通するのはやっぱり「がむしゃらに働いた」というところだろう。「泊り込み」「徹夜」「休日返上」は当たり前、365日家庭を省みず社業に専念したと述懐している。自ら先頭に立って牽引したればこそ今日の隆盛がある。文句をつけるつもりはない。
ただトップがそうであれば周りの社員もそれに続かざるを得ず、全員火の玉となって燃え上がっただろう。疑問をはさむ余地はない。遅れれば落伍しかない。かくて労働基準法違反をものともしない社風が築かれていくのである。どこでもそうなのだろう。
弁護するわけではないが、企業も業務の改善には腐心しているようだ。社内報や内部文書で繰り返し残業の縮小を呼びかけ、早く帰るよう促している。「午後何時に自動で室内灯の電源を落とす」というところさえある。あながち割増賃金が惜しいというわけでもあるまい。しかし真っ暗な中で仕事をしている社員がいる。私は心底驚いた。
これは一つには上司の心がけだろう。上のものが率先して帰らなければ平は帰ろうにも帰れない。
このようにして稼いだ何千億ものお金を一部が独占するというのも解せない話だ。財団を作って慈善をするのもいいだろう。田舎の母校に「イナモリ会館」を作るのもいいだろう。しかし一番は働き手に還元することだろう。パートのおじちゃんおばちゃんはプアなのですよ。

雨あがる唐芋の花夕雀

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薩摩芋は、当地では唐芋(からいも)という。薩摩から来たから「さつまいも」で、唐から琉球を経て来たから「唐芋」である。薩摩語は何でもはしょる。「からいも」も「かいも」とつづめて「ら」ぬきで発音するところが多い。
もともとは南米の生まれのようだ。それがどのような経緯で中国に渡ったかは知らない。今の海南島に島流しになった男が許されて都に帰る時持ち帰ったということになっている。おりから唐は玄宗皇帝の治世、楊貴妃もこの芋を食ったであろうか。ならばおそらく「ぷぁ〜〜ん」と豪快な屁を放ったにちがいない。
この薩摩芋の花をご存知ない方も多いのではなかろうか。そう思って上に掲げた。常に咲くとは限らない。何かの拍子にちらほら花をつける。その機微についてはどなたかに講釈していただきたい。朝顔に似た薄紫の小さな花は優雅である。ひっそりと畑にある唐芋の花は姿形とも品よく、今美人画を抜け出したように可憐である。とてもあのごつごつ、まるまるの「芋だし芋」からは想像できない。
朝も晩も、おやつと言えば「からいも」で育った私は、もう飽きるほど食ったから食傷している。家人は「からいも」が送ってきたと大騒ぎしているが私は見向きもしない。一人孤高を守っている。最近は紫芋が人気の的らしい。アントシアニンがどうとかこうとか何とも姦しいことだ。あれはそれほど旨い芋ではないということを私は食わずして知っている。芋で旨いのは「ニンジン芋」、今は「安納芋」というらしい。これは収穫して軒に吊るし寒にあてると熟熟となり、煮ても焼いても頬っぺが落ちるほどの旨さである。しかしあれはあの時代であったからそのように思っただけで、この飽食の時代に通用するかどうか、保証の限りではない。
先々月、サトイモの草取りに行った沖永良部島で、腰まである雑草に埋もれて私は、父と母と三人で毎日通った唐芋畑の夏休みを思い出した。
朝早く出て日が暮れるまで、汗と泥にまみれて畝の間を這い回っても端から端までたどり着くのがやっとだった。だから三人で一日三本の畝の草取りが終わるのである。一反の畑の草取りに何日を要しただろう。気の遠くなるような作業だった。畑はあっちに一反、こっちに五畝と散らばっていて、毎年夏休みは稲刈りと唐芋の草取りに明け暮れた。私が唐芋を好まないのは、その恨みが今も残っているのであろうか。
今は植え付け前にマルチ被覆をする。遮光性の黒いビニール(ポリエステルかな?)ですっぽり畝を覆うので、唐芋の除草などという農作業はこの世から消えた。灼熱の太陽に晒された黒いビニールの下でどのようなことが起こっているか、それが良いことなのか悪いことなのかよくわからないが、とにかく百姓は除草という難儀な仕事から解放された。
私が農作業から離れていた30年の間に、農業は少なくとも90度転回した。大勢で二日も三日もかかった田植えや稲刈りがほんの数時間、収穫もすべて機械がする。省力化はすすみ大農業が増えた。土地は集積し農業人口は激減した。はたしてこれが最良の道か。
アメリカやブラジルなどの広大な大地で「草取りをする」という発想は最初からなかっただろう。東南アジアなどの農村風景を見ても「除草」の場面は見られない。とすると「除草」は日本固有の文化であったかもしれない。田にしろ畑にしろ除草の文化は消えた。
私に閑かな老後があるとしたら、鍬と腕だけで自給するだけの百姓をしたい。これはやはり私のロマン、消え去るものへのノスタルジアであろうか。

親の子といはれて哀し蝦蟇の子は

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もともと焼酎が好きだったわけではない。あの独特な匂いも、何とも形容しがたい舌触りも嫌いだった。「焼酎食らぁ」だった父親のだらしない、情けない姿とも重なって、「俺は飲まない」と心に決めていた。洗礼は日本酒、ややあってウイスキー、その後はもっぱらビール党、つい最近までどうしても礼儀を欠くという場合しか口にしたことがなかった。
四、五年前、芋焼酎を造る酒造会社に半年ほど在籍した。営業と宣伝を担当したので「飲まない」というわけにはいかなくなった。人に勧めるからには「嫌い」では済まされない。
焼酎の歴史と製法も一から勉強した。朝四時から蔵に入り、仕込から蒸留まで一通り体験した。
その頃、酒税が上がって価格が跳ね上がったにもかかわらず、世を挙げて焼酎ブームでどの蔵も生産が追いつかなかった。私は東京大阪と在庫がない言い訳をするために駆け回った。増産に次ぐ増産で、一部では原料不足から輸入冷凍甘藷を使ったり、粗製濫造するなど問題も多かったはずだが、今はどうなのだろう。
おかげで焼酎の良さを知った私は、ときおり一人でちびりちびりやるようになった。一般にはお湯割が主流だが、私の場合はたいていがオンザロック、氷が解けるに従って少しずつ継ぎ足して時間をかけて飲む。

さて酒造会社勤務時代に仕入れた薀蓄。
鹿児島県大口市の郡山八幡神社の棟木に、永禄2年(1559年)に補修が行われた際に大工が残した「焼酎もおごってくれないけちな施主だ」という内容の落書きが残っていて、これが焼酎の飲用について日本国内に残存する最も古い文献だといわれている。また1549年に薩摩国に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルは、当時の日本人が蒸留酒を常飲していたことを記録に残している。このことから鹿児島ではすでに16世紀はじめに焼酎がさかんに飲まれていたことがわかる。だが当時まだ甘藷は日本に伝播していない。
1698年、当時種子島島主だった種子島久基が、琉球より甘藷をもらいうけ、種子島で栽培を始めたのが日本の甘藷栽培の始まりである。また1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川の前田利右衛門は船乗りとして琉球を訪れ甘藷を持ち帰り、近隣に広めてやがて薩摩藩全域で栽培されるようになった。その後青木昆陽が「甘藷記」を著して全国に普及せしめたことは歴史の教科書に詳しい。
久基の孫、久芳が「甘藷伝」を著し久基の功績を讃えているが、その中に「甘藷は…酎となり」の記述があり、この頃(18世紀半ば)すでに芋焼酎が製造されていたことがわかる。

その独特の匂いから都会ではあまり好まれなかった芋焼酎だが、近年製法の革新によって匂いを抑えることに成功し、また健康志向の高まりで焼酎が見直されていることなどから、女性にも人気の飲料に変身しつつある。
とまれ今夜も芋焼酎。飲むほどに酔うほどに眼は冴えてくる。

梅雨晴れやはや曇りたるメガネ拭く

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ピストン運航の桜島フェリー

安物買いの銭失い、とはよく言ったものだ。手軽に写せるバカチョンはないものかと探していた。「写ればいいんだ」と2000円で落札したのがこのカメラ、新品、30万画素だそうな…。あんまりといえばあんまりな。確かに手軽は手軽だが。

久しぶりの晴天、蒸し暑い一日だった。ちょっと早く家を出すぎたので、ぷらぷらと港を散策した。それでも30分も早く着いて、日本国に草むしりなどサービスしてやった。じっとしておれない性分だ。仕方あるまい。

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ありがたやあをむし様の食べ残し

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山川海岸より望む開聞岳


離島航路の船が佐多岬を回ると、左舷に開聞岳が姿を現す。木の葉のように波に揉まれていた船も錦江湾に入るとピタッと揺れが収まる。不安と期待を胸に船出した私たちにとって、開聞岳は新しい世界の始まりであり、希望の象徴であった。佐多岬を境にして世界がくるりと入れ替わる、そんな印象がある。
昔の種子屋久航路は各地の航路を巡り歩いた退役寸前の老朽船、しかも500トン内外の小船が多かった。船倉は一種独特の匂いが充満し、それだけで唾が口に湧きムカついた。時化れば折り重なるように横たわった乗客を縦揺れ横揺れが襲う。ぐ〜んと持ち上げられたかと思うと、際限なく沈み込んでゆく恐怖、加えて船の軋み。転がるまいと手足を踏ん張り、モドスまいと唾を飲み込んで耐えている側で、「オェ〜ゲロゲロ」と吐瀉する音、火のついたような子供の泣き声、まさに阿鼻叫喚の地獄だった。それを思うと故里恋しい気持も萎えた。船に乗るについては相当の決断を要したのである。
たいした距離でもないのに、「海を渡る」ことに恐怖があった。「帰りたい、還れない」のは私だけだったろうか。私は鹿児島市に居住した五、六年の間、帰島したのは数えるぐらいしかない。
特に盆暮れは帰省客で鈴なりとなり、階段やトイレや通路までも人であふれ、吐しゃ物で足の踏み場もないから、一度で懲りた。正月やお盆に帰った記憶がない。
今のプリンセスわかさは1万トン級、所要時間も3時間ぐらいではあるまいか。もう頭を抱えて上鹿するかどうか悩むこともあるまい。加えて水中翼船の就航で一段と速く、快適になっている。これだと日帰りで往復できるから出張や観光には便利である。隔世の感がある。

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